人生を有意義に生きる。「有意義」かどうかは自分勝手に定義すればいい。
100年後にはみんな死んでる
好きでもなんでもないことを一生懸命やるのは、偉くもないし立派でもなんでもい。それは「狂気」だ。
嫌いなことを我慢して渋々やっている奴は、なんていうか、控えめに言っても「バカ」だ。
貴重な人生を無駄にしないで自分が楽しいと思うことに時間を使った方がいい。 なぜなら、結局のところ人生は「無意味」だからだ。
あの仏陀でさえも似たことを言っている。
いくら理屈をこねくり回して高尚な目的を探したところで、突き詰めて考えれば結局この結論に帰着してしまうのだ。 別に私が狂人だとか、世捨て人だとか、そういう類の人種だからこんなことを言うわけじゃない。
人生は生きて死ぬまでの壮大な暇つぶしでしかない。これは真理だ。残念ながら。
【94】ブッダは「生」の謎を解く (2005-06-124)
生きることに意味がなくても絶望する必要はない
もし人生に無理やり意味付けをするとすれば、それはあなた自身が「人生を楽しめたかどうか」にしかない。
困難なことに挑戦することが楽しいと思えば挑戦すればいいし、ダラダラ過ごすのが楽しいと思えばダラダラ過ごせばいい。
毎日満員電車に揺られていたければそうすればいいし、本を読みたければ本を読めばいい。 歌を歌いたくなれば歌えばいい。
どっちが優れているとか、どんな生き方がより良いかとか、そんな尺度は勝手に自分で作ればいい。 価値を測る尺度は「自分の中にしか存在しえない」のだから。
世間一般の尺度に合わせたいという欲求が湧き上がってくることもあるが、それも結局、自尊心とか承認欲求とか、共同体の一部として受け入れられたいという「自己の内なる欲求」に過ぎない。結局そういう欲求も自分の中にしかないのだ。
世間一般の言うところの「成功」を手にして、他人から羨ましがられたいならそうすればいい。 うまくいけばそこそこ幸せだろう。だが、うまくいかなかったら悲惨だ。
そういううまくいかない時は評価の軸をずらしてしまうことだ。評価の軸を再定義することは簡単だ。単にそれに価値があると信じる(or信じない)だけだ。
これを覚えておくだけで苦しまなくて済む。