退屈な仕事は人工知能にやらせよう

Let the artificial intelligence do boring work

フォトジェニック消費まとめ

フォトジェニック消費とは?

映りが良い写真を撮りたい、つまりフォトジェニックな写真を撮りたい。そのために、モノを買ったり、体験を買ったりする消費行動。これが「フォトジェニック消費」である。 この消費行動は、モノそのものを買いたいのではなく、モノの先にある体験を買いたいという「体験消費」とも言えるし、体験したことを情報にして、その情報こそ価値があるのだとする「情報消費」という言い方もできるかもしれない。 購買行動が視覚重視になってきているのだ。モノの機能的価値よりも、むしろモノがどう見えるか、そのモノをどう撮影できるか。そして、モノと自分、モノと仲間、モノと生活をどう見せられるか・・・それが価値なのだ。

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フォトジェニック消費はこれからの時代のキーワード

承認欲求を満たすための消費にシフトしていっている

情報の消費速度は今までにない速度に到達する

一瞬で情報が手に入ってしまうため、浸透も早いが陳腐化も早い

 

物質的な豊かさは最早十分なのではないか

若者の〇〇離れ

若者の〇〇離れというワードをよく耳にする

テレビ離れ、飲み会離れ、活字離れ、カラオケ離れ、ゲーム離れ、パチンコ離れ、車離れなどなど、あげればキリがない。今、たくさんのものから若者が急速に離れていっているらしい

要は消費が冷え込んでいて昔ほど何かを買ったりしなくなったということらしいのだが・・・

そもそも若者が食いついていたのが戦後から高度経済成長期の好景気のたかだか数十年の話なので、今のこの状態は、加熱しすぎたブームが去って正常に戻っただけなのかもしれない

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なぜ若者は消費をしなくなったのか

お金がないから興味がないフリしてるだけで金があれば買うとか、将来に対する明るい展望があれば活発に消費をするといわれているが本当にそうだろうか?給与水準も出世や昇級の可能性もバブルの頃に比べれば確かに下がってはいるだろう

私は若者というほど若くはないが、〇〇離れと言われ始めた頃はまだ確かに若者だったので、その当時の感覚で言わせてもらうと、確かにこのどれも欲しくなかった
もちろん欲しいと言えば欲しいが他に欲しいものがたくさんあった
もっと安くて物欲を満たしてくれるものは無数にあったので、車や酒の優先順位はどんどん低くなっていった

物質的な欲求が十分に満たされて別の次元の欲求を求めるようになったのではないか?

自分の時間を大切にして自分がやりたい趣味を他人の目を気にせずに心置き無くやるとか、他者から嫉妬されたい、羨望されたいという欲求の方がメインになってきているのだろう

フォトジェニック消費

若者の消費動向の変化はSNS上で投稿したくなるようなイベントや食べ物がメインになってきているらしい

パンケーキ屋に行列をなす女子たち。ニュースや街中でよく見たことがあるだろう。彼女たちは本当にパンケーキを好きなのか? もし彼女たちにインタビューすれば、オレンジ色のチークを目の下に塗りたくった笑顔でウンウンとうなずくだろうが、決して信じてはいけない。外がサクサクで中がフンワリ、そんなことは食べなきゃ分からん。むしろ味がまずくてもOK。まだ食べたこともない小麦粉の焼き物に5時間も待てるのは、パンケーキを食べたいからじゃなく、パンケーキを写真に撮りたくて並んでいるのだ。 もっと言うと、見栄えのするパンケーキを撮影しSNSに投稿するために並ぶのだ。もっともっと言うと、話題のスポットにいち早く行って、ステキな体験をしているイケてるワタシに、「いいね!」を沢山つけてもらいたくて5時間も待つのだ。あふれんばかりのフルーツが乗った華やかなパンケーキや、クリームがタワーのように積まれた、カロリーのかたまりのパンケーキの投稿に、「かわいい!どこの店?」「これ全部食べたの!?すごいね!」というツッコミコメントがもらえそうな写真を撮りたい。 見た目で勝負できるパンケーキ屋はここ数年行列が絶えないし、いくら美味しくてもビジュアル的に華がないと流行らないのがいまのパンケーキ業界だろう。

購買行動が視覚重視になってきているのだ。モノの機能的価値よりも、むしろモノがどう見えるか、そのモノをどう撮影できるか。そして、モノと自分、モノと仲間、モノと生活をどう見せられるか・・・それが価値なのだ。

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http://www.hosei.ac.jp/keieigakkai/free-ks/ks_200604302/Vol.43_No.2-09.pdf

人生を有意義に生きる。「有意義」かどうかは自分勝手に定義すればいい。

100年後にはみんな死んでる

好きでもなんでもないことを一生懸命やるのは、偉くもないし立派でもなんでもい。それは「狂気」だ。

嫌いなことを我慢して渋々やっている奴は、なんていうか、控えめに言っても「バカ」だ。

貴重な人生を無駄にしないで自分が楽しいと思うことに時間を使った方がいい。   なぜなら、結局のところ人生は「無意味」だからだ。

あの仏陀でさえも似たことを言っている。

いくら理屈をこねくり回して高尚な目的を探したところで、突き詰めて考えれば結局この結論に帰着してしまうのだ。 別に私が狂人だとか、世捨て人だとか、そういう類の人種だからこんなことを言うわけじゃない。

人生は生きて死ぬまでの壮大な暇つぶしでしかない。これは真理だ。残念ながら。

【94】ブッダは「生」の謎を解く (2005-06-124)  

生きることに意味がなくても絶望する必要はない

もし人生に無理やり意味付けをするとすれば、それはあなた自身が「人生を楽しめたかどうか」にしかない。

困難なことに挑戦することが楽しいと思えば挑戦すればいいし、ダラダラ過ごすのが楽しいと思えばダラダラ過ごせばいい。

毎日満員電車に揺られていたければそうすればいいし、本を読みたければ本を読めばいい。 歌を歌いたくなれば歌えばいい。  

どっちが優れているとか、どんな生き方がより良いかとか、そんな尺度は勝手に自分で作ればいい。 価値を測る尺度は「自分の中にしか存在しえない」のだから。  

世間一般の尺度に合わせたいという欲求が湧き上がってくることもあるが、それも結局、自尊心とか承認欲求とか、共同体の一部として受け入れられたいという「自己の内なる欲求」に過ぎない。結局そういう欲求も自分の中にしかないのだ。

世間一般の言うところの「成功」を手にして、他人から羨ましがられたいならそうすればいい。 うまくいけばそこそこ幸せだろう。だが、うまくいかなかったら悲惨だ。

そういううまくいかない時は評価の軸をずらしてしまうことだ。評価の軸を再定義することは簡単だ。単にそれに価値があると信じる(or信じない)だけだ。

これを覚えておくだけで苦しまなくて済む。